はなまる通信

2003年01月

青春時代

2003年01月16日

●1966年7月 世田谷区代沢生まれ

下記写真は、
『幼き日の三兄弟。 ・・・ともふみはいつも、手を引かれている末っ子。』

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●1973年 私立駒場幼稚園卒園
●1979年 世田谷区立池之上小学校卒業 (児童会 ボーイスカウト)
●1982年 世田谷区立富士中学校卒業  (生徒会議長 バレーボール部)
         

『 父  母  兄  姉  ともふみ 』

しっかりものの兄・面倒見の良い姉との三人兄弟の末っ子として育つ。

父は厳格な人で、庭で竹刀を100振ると、子供たちを起こし、
近所の八幡様まで、早朝マラソンに連れて行くほどであったという。

ともふみ少年は、とにかく、三度の飯より新聞と議論が好きで、
一度、言い出すと頑として譲らない、まっすぐな性格に成長する。

「お兄ちゃんと、TVの前でニュースについて話を始めると、
いつのまにか議論になって、私が止めに入らなければならないほどでした」(美枝 母さん 談)

●1985年 東京都立新宿高校卒業 (バトミントン部・演劇部)
●1990年 東京都立大学法学部卒業(都市計画法・教育法を専攻)

父が病床にあり、日中はアルバイトをし、学費は自分で捻出した。
本当に、社会の厳しさを知ったと言う。

まだ、全国にドトールが12店舗しかない時代。
地元の下北沢のドトールで、働き始める。当時の時給は550円。

毎晩、銀座・六本木でお札が飛び交うバブル絶頂期に、
世田谷で1杯150円のコーヒーを無心で売り、
「目の前に数え切れない程いるお客様の為に、全身全霊で接すれば、
コーヒー1杯以上の思いが伝わり、必ず、心を通じさせることができる」と確信する。

アルバイトにもかかわらず、「なぜ、この店は下北沢より売れるのだろうか??」と、
下北沢以外の店舗を見学しに行くほどの熱の入れようで、
そのサービス精神は、社長賞までもらうほどであった。

下記、写真は、
『下北沢街頭演説 後ろは、前述のドトール下北沢店』

☆インターン生 街頭演説☆☆.jpg


一方、大学では、教育法を専攻。 都立大学法学部の兼子教授の下で、
問題が大きくなり始めていた「偏差値教育・いじめ問題」などを研究する。

時は1980年代半ば。中曽根総理の下に開かれた臨時教育審議会が「新学力観」
を示し、現在の教育改革の方向性が定められたのがちょうどこの頃である。
次世代を担う子ども達をどう育てていくか。そして時代の変遷期をどう生き抜いて
いくか。考えれば考えるほど、わからなくなる教育議論・・・。

「社会」というものを、学校(頭)と仕事(体)の両方で学び続けた青春時代であった。


ゼミ.jpg

『兼子先生と、ゼミの仲間たち』


サラリーマン時代

2003年01月15日

大学を卒業後、東急不動産㈱に入社。五年間をサラリーマンとして過ごす。

数々の都市計画プロジェクトを担当して行く中で、
政治家の不当な介入を目の当たりにし、強い憤りを感じる。

「語弊があるから、あんまり細かく言わないようにしてるんだけど、
  ○×▲@*/ёΛΞΨ・udo・ガラスの灰皿 gjriajigr・・が飛んできた$☆
         <注> 余りにもリアルすぎるため、詳細は花輪本人まで。」

当時を振り返るとき、大笑いしながら本人の口からは、そんなエピソードも出てくる。


1990年代、バブル崩壊や、自民党一党独裁政治の崩壊が起こり、
日本社会は、激動の時代を迎えていた。

自民党の内部分裂が起こり、離党する議員が続出。
いわゆる「新党ブーム」が起こったのも、この頃である。

  『 政治が面白くなってきたな。。。と感じるとともに、
    その自民党を飛び出した新党さきがけに、熱くなりました。
     人数もいないし、お金がないのをワザワザ自慢している。

     (いったいこの人たち、自民党を出ちゃって、
         どうするの?きっとみんな落ちるなあ・・・)

        と思う一方で、なんてカッコいいんだろうと感じていました。』


サラリーマンだった彼は、とあるビジネスホテルに、ノート一冊だけを持ってこもり、
たった一人で、自分が選挙に出たら、どう選挙戦を戦うか、誰が応援してくれるか、
そんなことを、紙に書いては、丸めてゴミ箱へ捨て、また書いてを繰り返したと言う。

そして、ついに、世田谷区議会選挙への立候補を決意する。

そんなドラマ仕立ての脱サラ、立候補劇が、当時の雑誌BINGに掲載されている。

匠 20代で政治家になる方法1☆.jpg

匠 20代で政治家になる方法2☆.jpg


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区議会議員時代

2003年01月14日

28歳の若さで、当時、最年少で世田谷区議会議員になった花輪ともふみは、
敢えて、既存の先輩政治家の姿に疑問を投げかけながら進み、
「長いものには巻かれろ!!」とは、真逆に位置する頑固な政治家へと成長する。


サラリーマンだったころの「ふつうの感覚」「庶民の感覚」を忘れないように、
「お役所仕事」の効率化・合理化や徹底した情報公開に奮闘。
いくつもの活動を、結果として残して行く。

花輪ともふみ区議会議員は、手に入れた政治家という立場に甘んじることなく、
世田谷という町を通し、政治の世界に突き刺さった一本の[杭]になり始めていく。

ーーーーーーー下記、代表的なものを三つ、紹介ーーーーーーーーーー


①空き教室の有効活用。

少子化の為、使われていない約700近い教室を、
地域解放施設に有効活用する事を提案!

駒沢中学校・駒留中学校の空き教室が老人大学として利用開始、
その他にも、地域防災拠点や保育園も誕生!


②監査委員に民間人を採用。

行政のチェック機能である監査委員が天下り人事であることを追求。

世田谷区の監査委員の四人のうち、一人を民間人から採用!

③学校給食業務を、民間委託を提案。

学校給食が一日1000円も経費をかけて作られている状況にメスを入れる。
その経費の半分が職員の人件費に消えている行政のコスト意識の低い実態を指摘!

区全体としても給食職員の人員削減に動き出し、民間委託推進が開始される!


詳しい政策等は「はなまる通信」をご覧ください。

挫折

2003年01月13日

1999年 4月11日 東京都議会議員補欠選挙に挑戦!

補欠選挙であるため、世田谷選挙区内、2議席の当選枠を、4名で争う激戦に、名乗りをあげる。

しかし、意気揚々と初挑戦した都議会議員選挙の結果は、
8万5千票を得るも、あと六千票たりず、落選してしまう・・・。

8万5千人もの人に自分の名前をフルネームで書いて頂き、落選。
こんなことは、今日の小選挙区制では、国会議員ですら、なかなか経験できない。
それこそ、自分の町を、素顔で歩くことすら、気を使う。鏡の前に立つのが恐くなったと言う。


『落選後、仲間との旅行』

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ここから、花輪ともふみ苦渋の浪人時代時代が始まる。

この浪人時代は、岡野敬基という青年を抜きには語れない。

岡山から上京し、大学一年生となった20歳の時に花輪ともふみと出会う。
花輪事務所に学生秘書(インターン)として入り、
花輪ともふみ区議時代から共に歩いた、最若年齢層のスタッフである。

『落選が決まった瞬間、選挙事務所に居られなくて、思わず、外に出たんだ。
しばらく、事務所に帰れなくてね、ずーと、意味もなく、淡島通りを歩いてたよ。
深夜まで、雨が降っていた日でさ、あてもなく歩いてた気がする。
「どうしよう。どうしよう。」って、そればかり独り言を繰り返しながらね・・・。
明け方、事務所に戻ってみたら、全員解散していたよ。
もう数人の人しか残ってなかったから、俺は花輪さんの落選の弁を聞いてないんだ。』

猿は、木からおちても、猿である。
それに比べて、政治家は、選挙におちたら、ただの無職である。

元区議会議員という肩書きは、何も意味を成さず、
政治活動をしている世田谷の一人の有権者として、
実家の地下の応接室を改造した部屋を事務所とし、
世論情勢を自分自身の言葉で綴る「はなまる通信」を書き続ける日々が続く・・・。

足しげく支援者に会いに行き、街頭演説を繰り返す。
事務所で製版や印刷を繰り返し、深夜までスタッフと喧々諤々議論を重ね、
どんな社会がこれから求められているのか、何が人の心に響く問題なのか?
そればかりを考える日々。

当時、学生であった岡野敬基は、度々、花輪ともふみと行動を共にした。
朝の街頭演説が終わった後、マクドナルドで食事をしながら議論を重ね、
夜の事務所作業が終わった後に、下北沢のBAR・フライトで議論を重ねたと言う。

『現在のマスターと本人。
   生まれて初めて、自分のお給料でお酒を飲んだ店だとか・・・。」  

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そんな二年間を情熱だけで突っ走る花輪ともふみに迷いが無かったわけではないだろう。
それでも、自分が訴えていることが、どうしても間違っているとは思えない。
そして、こんな自分にも、希望を乗せて共に悩んでいる若者がいて、支援して下さる方がいる。

その事実は、情熱を行動に変える信念と勇気を、彼に与え続けた。

そして、平成13年、決戦の東京都議会議員選挙は幕を切る。
世の中には小泉旋風が吹き荒れ、自民党優勢の中での戦いであり、
花輪ともふみにとっては大逆風の苦しい選挙となった。

七位当選の候補者が発表されてから、開票が進めど
深夜になっても当選の情報が報道されなかった・・・。


花輪事務所関係者達が、情報を待ちくたびれ、疲れきっていた真夜中、
やっと、八位@当選が報道される。


だるま.jpg

当選の発表が出た瞬間、歓声と同時に、堰を切ったように動き出したのは、
炊き出しを担当していた地元、代沢・三宿のお母さん達で、
勝利のお赤飯が炊き上がったのは、朝の4時ごろだったと言うのは、今でも語り草である。


岡野曰く、
「当選の瞬間は、言葉にはならないよ。
  だから、俺は、これからも花輪さんの敗戦の弁を聞く気はないよ。」

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『「東京マニュフェスト2005」の発表と同時に、政策論議を始める二人。
                                  三度の飯より・・・』

建設住宅委員会

2003年01月13日

建設住宅委員会
 2003.1.13

〇花輪委員 余りもう質問をする内容がなくなってしまいそうなぐらい、お二人に熱心にやっていただきましたので、短めにやらせていただきたいと思います。
 先ほど、どんな公園から要望があるかということで、世田谷の祖師谷公園もいわれなかったのですけれども、実際に公園管理事務所のご高配、配慮で、グランドか何かで既にドッグランを少しやってもらったみたいな話もあるようでございますので、つけ加えさせていただきたいと思います。
 今、陳情の審査でございますので、この審査をするに当たりまして、このドッグランの試行二カ月間、このことについて、今わかっている範囲で教えていただきたいなというふうに思います。
 その前段で、今、東京都には犬は一体何頭ぐらいいるんですか。
〇安藤公園緑地部長 健康局の調査でございますけれども、平成十四年三月末現在、三十三万六千頭でございます。
 なお、平成九年度以降、毎年一万頭を超えて増加しております。未登録の犬も存在しているということですから、実際にはこの登録数よりも多いのではないかというふうなことが一般にいわれております。
〇花輪委員 今、三十三万六千頭というお話がありましたけれども、土屋先生が、先ほど三割ぐらいという話がありました。東京都は大体五百二十万世帯といわれていますよね。ですから、三十三万頭だと若干一割を切るのかなと思いますが、実際には、話によると、その数倍という単位でいるのではないかと。犬を飼って、よく公園なんかに行かれる方に聞くと、登録している犬というのはそんなに多くないよというぐらい、登録している方が、逆にいうと少ないような話を聞くんですが、その辺はどのように認識をされていますか。
〇安藤公園緑地部長 民間団体の調査では、もっと多いような調査というのがあるのではないかというふうなことも聞いておりまして、登録の数以上の犬がいるのではないかということですが、実際としては、私どもとしては健康局の調査以外、資料を持ち合わせておりませんので、そういうところで判断しているところでございます。
〇花輪委員 なかなかそれをつかむ数字も難しいのでしょうが、犬のことを少し施策で取り込んでいくのであれば、現状をもう少し把握する努力をしていただければと思います。
 あと、今回の試行で具体的にどんなことを知りたいと思って試行されているのですか。
〇安藤公園緑地部長 近年、公園におきまして犬の放し飼い等の苦情が増大しまして、新たな対策が必要とされているということ、それから犬を自由に遊ばせる場所を求める意見、それから人と犬との分離を求める意見などが寄せられております。
 そこで、ドッグランは、公園利用者と犬との共存及び分離策として有効か否かを検証するため、社会実験を行っているものでございます。
〇花輪委員 社会実験というお話でございますが、もうちょっと細かく落とし込んでいくと、犬と人が分離をするという、共存がどうのこうのという話が、難しい言葉がありましたけれども、知りたいところはどんなところなんですか。騒音とか、いろいろなことがあるのでしょうけれども、いかがでしょうか。
〇安藤公園緑地部長 今回の社会実験につきましては、実際にドッグランを開設しまして、ドッグランの管理にどのような問題が生じるか、公園内での犬のトラブルや放し飼い防止にどのような効果があるのか、また一般の公園利用者に受け入れられるのかなどを具体的に検証したいと思っているところでございます。
〇花輪委員 この二カ月間で、何か問題はありましたか。例えば、けんかが起きたとか、近所から臭いというクレームが来たとか、うるさいとかいうクレームが来たとか、そういうことはこの二カ月間の中でありましたか。
〇安藤公園緑地部長 この二カ月間で、例えば犬を一頭しか連れてはいけないというところを、三頭を一人で連れてきまして、犬同士の争いになったのを、ただ、連れてきている人はおりますので、そういう方、犬の飼い主が双方協力して未然に防いだというようなこともございます。
 細かいことはいろいろあるかもしれませんが、具体的な大きな目立った問題とか、それから臭気がひどいとか、近隣住民からのクレームというのは寄せられておりません。
〇花輪委員 要は、順調にいっているという認識でよろしいでしょうか。答弁してください。
〇安藤公園緑地部長 実施に当たりまして、いろいろ私ども調査したわけでございますけれども、思った以上に順調に進んでいるということでございます。
〇花輪委員 よくわかりました。もうちょっと質問しようかなと思いましたが、大体順調に進んでいるということがよくわかりましたので、あとは、先ほど土屋委員の方からもありました受益者負担とか自主管理の問題、そういうことをしっかりと原則論をもってこれから、できれば私なんかはふやしていってほしいと思いますので、そのあたりを原則論をもって今回の調査を継続して、いい結果、結論が出るようにご努力をいただければと思います。
 以上で終わります。

建設住宅委員会

2003年01月13日

建設住宅委員会
 2003.1.13

〇花輪委員 余りもう質問をする内容がなくなってしまいそうなぐらい、お二人に熱心にやっていただきましたので、短めにやらせていただきたいと思います。
 先ほど、どんな公園から要望があるかということで、世田谷の祖師谷公園もいわれなかったのですけれども、実際に公園管理事務所のご高配、配慮で、グランドか何かで既にドッグランを少しやってもらったみたいな話もあるようでございますので、つけ加えさせていただきたいと思います。
 今、陳情の審査でございますので、この審査をするに当たりまして、このドッグランの試行二カ月間、このことについて、今わかっている範囲で教えていただきたいなというふうに思います。
 その前段で、今、東京都には犬は一体何頭ぐらいいるんですか。
〇安藤公園緑地部長 健康局の調査でございますけれども、平成十四年三月末現在、三十三万六千頭でございます。
 なお、平成九年度以降、毎年一万頭を超えて増加しております。未登録の犬も存在しているということですから、実際にはこの登録数よりも多いのではないかというふうなことが一般にいわれております。
〇花輪委員 今、三十三万六千頭というお話がありましたけれども、土屋先生が、先ほど三割ぐらいという話がありました。東京都は大体五百二十万世帯といわれていますよね。ですから、三十三万頭だと若干一割を切るのかなと思いますが、実際には、話によると、その数倍という単位でいるのではないかと。犬を飼って、よく公園なんかに行かれる方に聞くと、登録している犬というのはそんなに多くないよというぐらい、登録している方が、逆にいうと少ないような話を聞くんですが、その辺はどのように認識をされていますか。
〇安藤公園緑地部長 民間団体の調査では、もっと多いような調査というのがあるのではないかというふうなことも聞いておりまして、登録の数以上の犬がいるのではないかということですが、実際としては、私どもとしては健康局の調査以外、資料を持ち合わせておりませんので、そういうところで判断しているところでございます。
〇花輪委員 なかなかそれをつかむ数字も難しいのでしょうが、犬のことを少し施策で取り込んでいくのであれば、現状をもう少し把握する努力をしていただければと思います。
 あと、今回の試行で具体的にどんなことを知りたいと思って試行されているのですか。
〇安藤公園緑地部長 近年、公園におきまして犬の放し飼い等の苦情が増大しまして、新たな対策が必要とされているということ、それから犬を自由に遊ばせる場所を求める意見、それから人と犬との分離を求める意見などが寄せられております。
 そこで、ドッグランは、公園利用者と犬との共存及び分離策として有効か否かを検証するため、社会実験を行っているものでございます。
〇花輪委員 社会実験というお話でございますが、もうちょっと細かく落とし込んでいくと、犬と人が分離をするという、共存がどうのこうのという話が、難しい言葉がありましたけれども、知りたいところはどんなところなんですか。騒音とか、いろいろなことがあるのでしょうけれども、いかがでしょうか。
〇安藤公園緑地部長 今回の社会実験につきましては、実際にドッグランを開設しまして、ドッグランの管理にどのような問題が生じるか、公園内での犬のトラブルや放し飼い防止にどのような効果があるのか、また一般の公園利用者に受け入れられるのかなどを具体的に検証したいと思っているところでございます。
〇花輪委員 この二カ月間で、何か問題はありましたか。例えば、けんかが起きたとか、近所から臭いというクレームが来たとか、うるさいとかいうクレームが来たとか、そういうことはこの二カ月間の中でありましたか。
〇安藤公園緑地部長 この二カ月間で、例えば犬を一頭しか連れてはいけないというところを、三頭を一人で連れてきまして、犬同士の争いになったのを、ただ、連れてきている人はおりますので、そういう方、犬の飼い主が双方協力して未然に防いだというようなこともございます。
 細かいことはいろいろあるかもしれませんが、具体的な大きな目立った問題とか、それから臭気がひどいとか、近隣住民からのクレームというのは寄せられておりません。
〇花輪委員 要は、順調にいっているという認識でよろしいでしょうか。答弁してください。
〇安藤公園緑地部長 実施に当たりまして、いろいろ私ども調査したわけでございますけれども、思った以上に順調に進んでいるということでございます。
〇花輪委員 よくわかりました。もうちょっと質問しようかなと思いましたが、大体順調に進んでいるということがよくわかりましたので、あとは、先ほど土屋委員の方からもありました受益者負担とか自主管理の問題、そういうことをしっかりと原則論をもってこれから、できれば私なんかはふやしていってほしいと思いますので、そのあたりを原則論をもって今回の調査を継続して、いい結果、結論が出るようにご努力をいただければと思います。
 以上で終わります。

都議会議員時代

2003年01月12日

2001年6月 34歳 念願の都議会議員選挙に勝利し、
新宿の都議会に戦いの場を移した花輪ともふみは、
127議席中、自民・公明の両党が約70議席を締める逆風状況の中、
まず建設委員理事として出発をする。

「できることから、はじめよう!」のキャッチフレーズを、
「ズバリ!都政をハナマルに!」に変えたのもこのころで、
花輪ともふみ、いよいよ、世田谷での経験と実績を武器に、
東京都政の真っ只中に、帆を揚げて、大航海に乗り出して行くこととなる。

はなまる


はなまる2


そんな中、彼を襲うのは、10年ともに歩いてきた男の突然の死であった。
特殊法人問題で一声を集めていた石井こうき氏が、自宅前で、刺殺されてしまう...

故人の為に、ここではあえて、詳細やその後についてはふれない。
ただ、当時、花輪の秘書をしていた富沢氏は、
頭を抱えながら、花輪ともふみの立ち振る舞いを、一気に話してくれた。

「事件当日から祖師谷の花輪事務所は閉じられて、
まるで三軒茶屋の石井事務所の三階に移転したかのようだった。
支援者・議員関係者・マスコミ・家族・・・来客でごった返し、毎日が大混乱だった。
花輪はさぁ、ほら、慌てていても、切羽詰っていても、冷静な判断ができる人だからさ。
石井さんの支援者の名簿をめくっては、一人一人に電話をしてた花輪の姿を覚えてる。
お通夜で司会を終えるまで、気丈に振舞い続けていても、ずっと花輪の目は真っ赤だったよ。

その数日間、大混乱の中、食事もままならなかった5・6人で三軒茶屋のお寿司屋さんに行って、
メンバー内で一番若かった俺は、張り詰めてた空気に耐えられなくて、不覚にも大泣きしてしまった。
そしたら、誰かが、石井さんのイメージを損なう事を言ったんだ。その瞬間、花輪が大声を出してね。

『石井さんのイメージを守ること。暴力や圧力に屈しないで、自分たちの正義を貫くこと。
それを、残された僕らがやらなければ、一体、だれが引き継いで、それをやっていくんだよ。』とね。
きっと、本人は、後継者争いや、権力政治の嵐の中に、間違いなく居たんだろうけどけど、
『俺は、補選には出ない』それだけ言って、後は、亡き石井さんや御家族の為にひたすら動いてたよ。」

石井こうき選挙.jpg

10年。区議会時代から走ってきた花輪ともふみと石井こうきの関係は、
お互いにしかわからない(絆)があったであろう。推して量ることは難しいし、言葉にはならない。

「自分の父親が他界したのと、なんら変わりがないほど、私の胸には刻まれています」

そう漏らしていたのを一度だけ、聞いたことがある。
学生時代に実の父親を亡くしている花輪本人にとってみれば、
彼を支援してくれている年上の男性は、すべて自分にとって、ある意味、父親だと映っているだろう。
しかし、それに加えて、花輪ともふみにとっての石井こうき氏の存在は、
「共に戦う同士」であったのだから、その喪失感は、どんなものだったのだろうか。。。

DSC_10562.jpg


時は、まさに区長、および、区議会議員選挙を目前に控えていた時期であり、
世田谷における民主党は、その瞬間から建て直しを余儀なくされるが、
選挙は、戦争である。情も、涙も、自らが消化するしかない。負けたら、全てが言い訳と化す。

偉大な命が動乱の波に消えても、
その波間で、世田谷の民主党支持者の方々がどれだけ動揺していようとも、
花輪は人一倍、駆けずり回り、なんとかするしかなかったし、
花輪には、駅頭で、事務所で、大きな声を出すことで、
自分を奮い立たせ、現実を乗り越えるしかなかった。

衆議院議員補欠選挙に立候補した小宮山洋子議員の圧倒的勝利に加え、
民主党は区議会議員選挙に、世田谷区で、
9名の公認と1名の推薦を出し、7名の当選を勝ち取る。

海の臨める伊豆半島の小高い丘にある石井こうき氏の墓前に、
その戦果を報告したとき、果たして彼の胸中に何があったか、
それを知ることは出来ないが、それでも、花輪ともふみは、
新しい風を手にし、進む海路を、その丘から見ただろう。

風は変わることも、乱れることもあるかもしれない。横風に船が揺れることもあるだろう。
それでも、羅針盤をにらみ、海路を見誤らないリーダー達がいる限り、
船は、目指すべき進路から、外れることはない。

未来へ

2003年01月11日

それから10年、走ってきた・・・。


「なんとかなる!大丈夫さ!はっはっは!」
毎日のように、冗談を言い、朝に晩に、笑っている。
今後も様々な事を笑いながら、乗り越えて行くであろう。
どんな壁や、どんな困難も、笑い飛ばして進んで行くであろう。

『出すぎた杭』・・・その文字からは、しかめっ面が連想されやすい。
しかし、毎日見せる笑顔の底にこそ、彼の本当の強さがあると信じて止まない。

笑顔を作り出せるという事は、精神世界の強さであろうし、
笑顔を作り続けるという事は、リーダーの最大の条件だからである。

だからこそ、花輪ともふみという「出すぎた杭」は、
いつまでも笑顔であり続けるべきなのである。笑いまくっているべきなのである。


最後に、ここまで読み通して頂いた感謝を込めて、
花輪ともふみが、毎日のように口ずさむ曲を一曲紹介し、
「波乱万丈花輪録」の結びとさせて頂きたいと思う。

           2005 春 花輪ともふみ波乱万丈伝 編集委員


[ 栄光の架橋 ]   ゆず

誰にも見せない泪があった 人知れず 流した泪があった
決して平らな道ではなかった けれど確かに歩んで来た道だ
あの時想い描いた夢の途中に今も
何度も何度もあきらめかけた夢の途中

いくつもの日々を超えて めぐり着いた今がある
だからもう迷わずに進めばいい 
栄光の架橋へと・・・

悔しくて眠れなかった夜があった
恐くて震えていた夜があった
もう駄目だと全てが嫌になって逃げ出だそうとした時も
想い出せばこうしてたくさんの支えの中で歩いて来た

悲しみや苦しみの先に それぞれの光がある
さあ行こう 振り返らず走り出せばいい
希望に満ちた空へ・・・

誰にも見せない泪があった 人知れず流した泪があった


いくつもの日々を超えて めぐり着いた今がある
だからもう迷わずに進めばいい 
栄光の架橋へと・・・
終わらないその旅へと・・・
君の心へ続く架橋へと・・・


無題.bmp

2005年 7月 3日 東京都議会議員選挙 投票日

   ・・・ 花輪ともふみ いよいよ四度目の戦いの場へ駆け上がる。

「出すぎた杭」の栄光の架橋の先に、何があるのか、皆様と一緒に見てみたい。 

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