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■波乱万丈花輪録
2003年01月12日
都議会議員時代
2001年6月 34歳 念願の都議会議員選挙に勝利し、
新宿の都議会に戦いの場を移した花輪ともふみは、
127議席中、自民・公明の両党が約70議席を締める逆風状況の中、
まず建設委員理事として出発をする。
「できることから、はじめよう!」のキャッチフレーズを、
「ズバリ!都政をハナマルに!」に変えたのもこのころで、
花輪ともふみ、いよいよ、世田谷での経験と実績を武器に、
東京都政の真っ只中に、帆を揚げて、大航海に乗り出して行くこととなる。
そんな中、彼を襲うのは、10年ともに歩いてきた男の突然の死であった。
特殊法人問題で一声を集めていた石井こうき氏が、自宅前で、刺殺されてしまう...
故人の為に、ここではあえて、詳細やその後についてはふれない。
ただ、当時、花輪の秘書をしていた富沢氏は、
頭を抱えながら、花輪ともふみの立ち振る舞いを、一気に話してくれた。
「事件当日から祖師谷の花輪事務所は閉じられて、
まるで三軒茶屋の石井事務所の三階に移転したかのようだった。
支援者・議員関係者・マスコミ・家族・・・来客でごった返し、毎日が大混乱だった。
花輪はさぁ、ほら、慌てていても、切羽詰っていても、冷静な判断ができる人だからさ。
石井さんの支援者の名簿をめくっては、一人一人に電話をしてた花輪の姿を覚えてる。
お通夜で司会を終えるまで、気丈に振舞い続けていても、ずっと花輪の目は真っ赤だったよ。
その数日間、大混乱の中、食事もままならなかった5・6人で三軒茶屋のお寿司屋さんに行って、
メンバー内で一番若かった俺は、張り詰めてた空気に耐えられなくて、不覚にも大泣きしてしまった。
そしたら、誰かが、石井さんのイメージを損なう事を言ったんだ。その瞬間、花輪が大声を出してね。
『石井さんのイメージを守ること。暴力や圧力に屈しないで、自分たちの正義を貫くこと。
それを、残された僕らがやらなければ、一体、だれが引き継いで、それをやっていくんだよ。』とね。
きっと、本人は、後継者争いや、権力政治の嵐の中に、間違いなく居たんだろうけどけど、
『俺は、補選には出ない』それだけ言って、後は、亡き石井さんや御家族の為にひたすら動いてたよ。」

10年。区議会時代から走ってきた花輪ともふみと石井こうきの関係は、
お互いにしかわからない(絆)があったであろう。推して量ることは難しいし、言葉にはならない。
「自分の父親が他界したのと、なんら変わりがないほど、私の胸には刻まれています」
そう漏らしていたのを一度だけ、聞いたことがある。
学生時代に実の父親を亡くしている花輪本人にとってみれば、
彼を支援してくれている年上の男性は、すべて自分にとって、ある意味、父親だと映っているだろう。
しかし、それに加えて、花輪ともふみにとっての石井こうき氏の存在は、
「共に戦う同士」であったのだから、その喪失感は、どんなものだったのだろうか。。。

時は、まさに区長、および、区議会議員選挙を目前に控えていた時期であり、
世田谷における民主党は、その瞬間から建て直しを余儀なくされるが、
選挙は、戦争である。情も、涙も、自らが消化するしかない。負けたら、全てが言い訳と化す。
偉大な命が動乱の波に消えても、
その波間で、世田谷の民主党支持者の方々がどれだけ動揺していようとも、
花輪は人一倍、駆けずり回り、なんとかするしかなかったし、
花輪には、駅頭で、事務所で、大きな声を出すことで、
自分を奮い立たせ、現実を乗り越えるしかなかった。
衆議院議員補欠選挙に立候補した小宮山洋子議員の圧倒的勝利に加え、
民主党は区議会議員選挙に、世田谷区で、
9名の公認と1名の推薦を出し、7名の当選を勝ち取る。
海の臨める伊豆半島の小高い丘にある石井こうき氏の墓前に、
その戦果を報告したとき、果たして彼の胸中に何があったか、
それを知ることは出来ないが、それでも、花輪ともふみは、
新しい風を手にし、進む海路を、その丘から見ただろう。
風は変わることも、乱れることもあるかもしれない。横風に船が揺れることもあるだろう。
それでも、羅針盤をにらみ、海路を見誤らないリーダー達がいる限り、
船は、目指すべき進路から、外れることはない。
投稿者 hanawa : 2003年01月12日 22:12

