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■波乱万丈花輪録
2003年01月13日
挫折
1999年 4月11日 東京都議会議員補欠選挙に挑戦!
補欠選挙であるため、世田谷選挙区内、2議席の当選枠を、4名で争う激戦に、名乗りをあげる。
しかし、意気揚々と初挑戦した都議会議員選挙の結果は、
8万5千票を得るも、あと六千票たりず、落選してしまう・・・。
8万5千人もの人に自分の名前をフルネームで書いて頂き、落選。
こんなことは、今日の小選挙区制では、国会議員ですら、なかなか経験できない。
それこそ、自分の町を、素顔で歩くことすら、気を使う。鏡の前に立つのが恐くなったと言う。
『落選後、仲間との旅行』

ここから、花輪ともふみ苦渋の浪人時代時代が始まる。
この浪人時代は、岡野敬基という青年を抜きには語れない。
岡山から上京し、大学一年生となった20歳の時に花輪ともふみと出会う。
花輪事務所に学生秘書(インターン)として入り、
花輪ともふみ区議時代から共に歩いた、最若年齢層のスタッフである。
『落選が決まった瞬間、選挙事務所に居られなくて、思わず、外に出たんだ。
しばらく、事務所に帰れなくてね、ずーと、意味もなく、淡島通りを歩いてたよ。
深夜まで、雨が降っていた日でさ、あてもなく歩いてた気がする。
「どうしよう。どうしよう。」って、そればかり独り言を繰り返しながらね・・・。
明け方、事務所に戻ってみたら、全員解散していたよ。
もう数人の人しか残ってなかったから、俺は花輪さんの落選の弁を聞いてないんだ。』
猿は、木からおちても、猿である。
それに比べて、政治家は、選挙におちたら、ただの無職である。
元区議会議員という肩書きは、何も意味を成さず、
政治活動をしている世田谷の一人の有権者として、
実家の地下の応接室を改造した部屋を事務所とし、
世論情勢を自分自身の言葉で綴る「はなまる通信」を書き続ける日々が続く・・・。
足しげく支援者に会いに行き、街頭演説を繰り返す。
事務所で製版や印刷を繰り返し、深夜までスタッフと喧々諤々議論を重ね、
どんな社会がこれから求められているのか、何が人の心に響く問題なのか?
そればかりを考える日々。
当時、学生であった岡野敬基は、度々、花輪ともふみと行動を共にした。
朝の街頭演説が終わった後、マクドナルドで食事をしながら議論を重ね、
夜の事務所作業が終わった後に、下北沢のBAR・フライトで議論を重ねたと言う。
『現在のマスターと本人。
生まれて初めて、自分のお給料でお酒を飲んだ店だとか・・・。」

そんな二年間を情熱だけで突っ走る花輪ともふみに迷いが無かったわけではないだろう。
それでも、自分が訴えていることが、どうしても間違っているとは思えない。
そして、こんな自分にも、希望を乗せて共に悩んでいる若者がいて、支援して下さる方がいる。
その事実は、情熱を行動に変える信念と勇気を、彼に与え続けた。
そして、平成13年、決戦の東京都議会議員選挙は幕を切る。
世の中には小泉旋風が吹き荒れ、自民党優勢の中での戦いであり、
花輪ともふみにとっては大逆風の苦しい選挙となった。
七位当選の候補者が発表されてから、開票が進めど
深夜になっても当選の情報が報道されなかった・・・。
花輪事務所関係者達が、情報を待ちくたびれ、疲れきっていた真夜中、
やっと、八位@当選が報道される。

当選の発表が出た瞬間、歓声と同時に、堰を切ったように動き出したのは、
炊き出しを担当していた地元、代沢・三宿のお母さん達で、
勝利のお赤飯が炊き上がったのは、朝の4時ごろだったと言うのは、今でも語り草である。
岡野曰く、
「当選の瞬間は、言葉にはならないよ。
だから、俺は、これからも花輪さんの敗戦の弁を聞く気はないよ。」

『「東京マニュフェスト2005」の発表と同時に、政策論議を始める二人。
三度の飯より・・・』
投稿者 hanawa : 2003年01月13日 22:10

